橋本 栗谿 はしもと りくけい
   

松山蓊鬱碧崔嵬
中有甘泉袞々來
天険難攻攻不落
人和易守守無摧
二州文物一○○
百難城垣四海魁
莫謂桑滄更舊觀
仁風閣上翠雲開
松山(=久松山城)は蓊鬱(=草木が盛んに茂り) 碧(=青緑色)で崔嵬(=岩や石がごろごろしていて険しい山)
中に有り甘泉(=うまい水のわき出る泉) 袞々(=大水が流れくるさま)と来る
天険(=地勢が険しい自然の要害)攻め難く 攻めるも不落
人和(=人の和) 守り易く 守りて摧(=へし折る)無し
二州(=因幡国と伯耆国(現在の鳥取県))の文物 一○○
百難(=あらゆる困難)の城垣 四海(=世の中)に魁
莫謂桑滄(=世の中の激しい移り変わり) 更に旧観
仁風閣上 翠雲(=翠色の雲)開く
鳥取城
鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡)に築かれた戦国時代から江戸時代の日本の城。国の史跡に指定されている。別名、久松山城。織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉が兵糧攻めを用いて攻略した。開城後、入城した宮部継潤によって山上ノ丸の改修が行われ、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張された。現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残る。
鳥取藩は、因幡国・伯耆国(現在の鳥取県)の2国を領有した大藩である。石高は32万5千石。藩庁は因幡の鳥取城(鳥取市東町)に置いた。久松山城とも称した。
車井戸
中の御門の付近(登城した人が籠や馬から下りる場所の近く)にあり、瓦で葺かれた屋根があり、滑車で藩主の御用水を汲み上げていた。直径は約1.4m、深さは3m以上とみられ、松材で組まれた井戸枠も出土した。
仁風閣は、鳥取県鳥取市にあるフレンチルネッサンス様式の西洋館。中国地方屈指の明治建築として名高く、1973年6月2日には国の重要文化財に指定されている。
1907年、当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として鳥取城(=久松山城)跡の扇御殿跡に建てられた、旧鳥取藩主池田仲博侯爵の別邸である。「仁風閣」の館名は、この行啓に随行した元帥海軍大将東郷平八郎が命名したもの。
50.2p×136.7p

元治元年(1864)生〜昭和28年(1953)歿
 栗渓は、漢学者にして山口高等商業学校の教授であった。その書は雄渾である。東京帝大文科古典講習科漢書課卒業。愛媛県尋常中学に勤務の折、同僚の夏目漱石と親しくしており、『坊ちゃん』の一節に出る「漢学者の先生」とは、彼のことだと言われている。(『鳥取県大百科』798頁)
 「栗谿橋本蔵」の下に、白文の「橋本蔵印」、朱文の「家在栗谿」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://72.14.235.104/search?q=cache:xJwJCuJF8goJ:www.lib.tottori-u.ac.jp/Sample/kaisetsu.htm+%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E6%A0%97%E6%B8%93&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp&lr=lang_ja
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